ピアノ。 そして、ピアニスト

《エッセイ》

「ピアニスト」との出逢い。心に響く「ピアニスト」と出逢えたときの喜びは大きい。

鍵盤楽器、とりわけピアノを演奏する人は、この地球(ほし)に星の数ほどいる。しかし、音楽的な感性や知恵よりも、キーを打鍵することが優先される演奏に私は数え切れないほど遭遇してきた。

弦(絃)楽器弾きである私にとって、ピアノは弦楽器の仲間だという親近感を抱いている。擦(弓)弦楽器と打弦楽器という発音手段は異なれど、弦を鳴らして音楽を創ることにはなんら変わりはない。しかしピアニストの多くが、ピアノも弦(絃)楽器のひとつであることを忘却しているのでは・・・と思う局面にしばしば出会う。

鍵盤楽器「ピアノ」には正式名称がある。
それはイタリア語で「クラヴィ・チェンバロ・コル・ピアノ・エ・フォルテClavicembalo col piano e forte」である。これを直譯すると「ピアノ(弱い音)もフォルテ(強い音)も出せるチェンバロ」となる。正式名称といっても、法的な位置づけではないので、これと近い呼び名もある。
簡略化して「ピアノフォルテ」と呼ばれ、さらに短縮されて「ピアノ」となる。「弱い」という単語に集約されているところが興味深い。

「ピアノフォルテ」の前身である「フォルテピアノ」は、強弱を持たなかったバロック時代の楽器・チェンバロに代わり、強弱を表すことでより豊かな表現力が可能な楽器として登場した。
やがて時が進み、鍵盤数が現在の八十八鍵に落ち着いた。人類の可聴範囲を網羅した楽器となったのだ。ピアノがオールマイティな楽器としての出発点だ。

鍵盤の鍵は、字のごとく「カギ」である。キーボードのキーKeyだ。ひとつずつの音が、何らかの鍵となっているのだ。その鍵盤のアクション技術も進化し、連打や強弱の差の多様な変化が、可能になった。つまり、ピアノ(弱音)が表現として可能になったのだ。そうして今日までに百五十年余が経過した。

楽器の名称こそ「ピアノ(弱音)」だが、弱音をうみだせる感性と技術を保持した演奏者が多くはないのが現実だ。それは教育者のあり方とも関係する。ピアノでピアノ(弱音)を表現できるのが「ピアニスト」だとすれば、世の趨勢は「フォルティスト」が跋扈している。

ひるがえれば、弱音を表現する指のタッチや感性は、簡単には習得できないことを物語っている。

ピアノの習得には、ピアノの内部構造やタッチ、楽器の歴史や音楽の学習に相応しい環境づくりが必要条件となろう。伝統的に受け継がれてきた楽器に直接触れ、またその仕組みと発想を探求することから、強弱や抑揚などの繊細表現を学び、演奏をたちあげてゆくことが近道かもしれない。

閑話休題。日本の信号機は、青→黄→赤の次は青になる。ヨーロッパで見かける信号機は、赤の次は黄、もしくは赤と黄が両方点灯してから青に移る。次の色の準備が常に用意されている。
ここに「止まれ→進め」と「止まれ→進む用意→進め」の違いがある。この発想の違いは、文化性の差異であり、優劣を問うものではない。

私は西洋で育まれた西洋楽器に、その信号機の発想と近いニュアンスを感じる。音が発生する直前に、からだと精神に準備空間と動作が横たわっている。その準備は西洋音楽の構成の要であり、楽譜を読む時の必須事項でもある。

ピアノは単体でリズム、メロディ、ハーモニーの音楽の三要素を独りで担当できる。それに加え、声楽や器楽とのアンサンブルも可能な楽器として、産業革命以降北半球へ急速に拡がった。

二十一世紀になって、日本では「大人の◎◎教室」を数多く見かけるようになった。世紀単位の出来事ではないだろうが、社交ダンス、フラダンス、ピアノなどの教室が増している。その特徴として、ひとつは華麗なステージや衣装を対岸に構えた「メラメラ感」のものと、今ひとつは日曜大工的な「ホノボノコツコツ感」が感じられるものがある。

「大人のピアノ教室」では、音楽を鑑賞するだけではなく音楽創造に参画してみたい、という意欲を持った方々が多いそうだ。さらに、演奏してみたい作品、憬れの作品をお持ちで、マイペースでお稽古したい、という個人的条件がもれなく付随しているようだ。

団塊の世代の方たちが種々の文化探訪をされる姿は、世界で最も長寿国となった日本のひとつの側面であろう。私は昨今、趣味行動の代名詞ともなった「ケイコとマナブ団塊編」は、拡がりと共に分岐点にあるように感じている。

お稽古ごとは何よりも継続が大切だ。それには興味関心の維持と根気力、指導者や仲間の存在と目標の設定が欠かせない。

しかし、私の想像力を越えたアイデアが日本で出現しているのだ。

「一度で良いから、あのメロディをピアノで奏でてみたい」

このような切なる想いは、お稽古の、ひいては人生の原動力となるので、否定はできない。むしろ肯定的に捉え、その作品に照準を合わせ、練習を積み重ねてゆくのが音楽創造の妙味だ。一音一音耳で確かめ、運指を目で確認し、ゆっくりからやがてその作品に相応しいテンポに移行し、記憶ともリンクしながらお稽古を繰り返してゆく。

ところが作曲者の作品創造にあたって慎重に選ばれた調性は、お稽古のこの段階に於いて、いささか厄介ものに転じる傾向にあるようだ。メロディをドレミファでうたえたとしても、その現象は調性とは関係なくドの位置が動く、いわゆる「移動ド」で捉えている場合に起ちおこる。

その場合、メロディをハ長(短)調に置き換えれば、鍵盤上で速やかに希望のメロディが奏でられることになるようだ。ハ調は、鍵盤上で最も認識しやすいからだろう。

この傾向を受け「ハ調で弾くクラシック」「ハ調で弾くモーツァルト」…のようなハ調シリーズが次々と登場し、街のあちこちですばらしきメロディがハ調で鳴り始めている。

鍵盤の鍵がカギであることを前述した。一オクターヴの中に存在する十二の鍵盤の、ひとつずつの鍵盤がキー音となって、調性が展開されることを意味している。ところがハ調シリーズの登場は、キー音を「ド」のみに束ねてしまった。極端に表現すれば、音楽世界が十二分の一に縮小したのだ。演奏を平易にするために調性感を犠牲にしたミニチュア化だ。

私は、そこまでする必然があるのだろうか、という作曲者保護の立場と、それにより音楽がより身近に生活にとけこめるなら…という愛好者擁護の立場の板挟みとなる。いずれにせよ私には実害がないので、言わざるを貫く予定だったのだが、書かねばならない事情ができた。

私の目に飛び込んできたのは、なんとハ調演奏用に作り替えられた「ピアノ」だった。すべての鍵盤が白いのだ。黒くて細くて奥に佇む黒鍵がひとつもない「ピアノ」が存在していることを目の当たりにして、腰が砕けた。

その新発見した楽器の名は、白鍵だけなので「新白鍵」という。すでにこれを使用し、コンサートも開かれ、録音も登場している。

ただ、ハ調用の楽器は音階がワンパターンなので、おのずと演奏可能な作品の幅はせまくなる。ずらっと同じ形状の白鍵が並ぶと、どこが「ド」なのかを瞬間的に一目で発見することができない。真剣に「ド」の白鍵を発見せねばならない。

ジョークとしては楽しめる存在だが、藝術の見地からはいささか哀しく、寂しい。
この楽器改造の流れは、ピアノだけに留まってはいなかった。ヴァイオリンにも登場していた。「フレット・ヴァイオリン」が製品化されているのだ。

ヴァイオリンをはじめとする弓弦楽器は、ギターや琵琶などのネックの部分についているフレットを持たない。音程をつくり出す左手の押さえるポイントは、指板上にはなく、自身で発見してゆくのだ。音程感覚を養うには大変長い道のりが必要だが、押さえる場所が指定されていないからこそ、和音や旋律の違いによって音程を縦横に上下させることができるし、音をずらしてゆくグリッサンド(ポルタメント)奏法も楽しめる。

ヴァイオリン習得のための近道として、考案されたであろうフレット・ヴァイオリンは、ギターのフレットのようにライン上を押さえることはせず、ラインとラインの間を押さえる。また弓で弦を弾いたときの振動がフレットに触らないように工夫が施されている。

初心者の方にとっては大変便利なのだろうと、その深遠な配慮と努力を讃えたい。
ところがよく考えてみると、弦楽器奏者は音程をとるのに、ネックの長さの指定された場所ではなく、「比率の関係」で捉えているのだ。大人のヴァイオリン奏者が、子ども用の小さい分数ヴァイオリンを、手に取った瞬間に音程を捉え演奏できる理由と面白さはそこにある。

目先の目標と安易に結びつくことで、本質が埋もれてしまってはならない。美しいものがその本質本領を発揮させている背景を奪ったり曇らせることに、私は抵抗心を持ちたい。✏️