「無伴奏」に無歓心

《エッセイ》

「無伴奏チェロ組曲」「無伴奏合唱団」・・・これらの文言に接すると、私は日本が西洋音楽を受容していった時代に想いを馳せる。

いつから「無伴奏」という3文字熟語が巷で使用されるようになったのかはつまびらかではない。ちなみに『広辞苑第六版』(岩波書店)に「無伴奏」の項目は見あたらない。「伴奏」の項目に関連事項としての「無伴奏」表記はない。

日本の音楽界と音楽産業界は、作曲者の意図や歴史の背景と深く関わることなく、無意識のうちに「無伴奏」を使用しているように思えてならない。無関心と無頓着からたどる無理解の域にある。

ときに、「伴奏の有るもの」に比して「無伴奏」が、格式や次元の高い象徴として使用されていたりする。これは二重の誤謬であり、本質を遠ざけている。日本語特有の表現「無伴奏」を、その生い立ちや成長ぶりから内容を考えてみたい。といっても、資料が豊富にあるわけではない。

◇無について
「無」とは否定する文言であり、「有」の対義語としてつかわれる。そこには大きく分けてふたつの考え方がある。

ひとつは絶対的虚無として、物事が存在しないことを示す「無」。「有」の反対としての存在論に与せず、無論の立場としての「無」である。

いまひとつは、ある状況下では無くとも、他の状況においては存在することを含んだ使い方だ。これは存在論に与した考え方だ。

音楽用語のような顔つきで使用されている「無伴奏」は、後者の存在論に立っている。伴奏を虚無とはせず、「ある状況下において」存在していないという意味を示している。
それならば「有伴奏」「無伴奏」の文言が存在していてもおかしくないのだが、そもそも「伴奏」の定義があやふやなことをまず確認せねばならない。あやふやなのは、西洋音楽を受容した日本のことだけではない。西洋においても、主役と脇役の脇役を伴奏とするのか、共同作業の相方を伴奏とするのか、はっきり伴奏の概念が定義されているわけではない。

かりに主役・脇役がはっきり区分される音楽作品であっても、作品上の役割分担としての主役・脇役であって、当然人格上の主従とは無関係だ。
たとえばピアノが脇役の役割を担当するコンサートでも、「ピアノ・・・氏名」と記されるのが好ましいと考える。日本では、「ピアノ伴奏」や「伴奏者」といった言葉が、無配慮に使用されている例をちらほらみる。

◇主役と脇役
日本の伝統的な純邦楽では、三味線は唄にあわせて調子を変化させ、寄り添うように同じメロディを奏でてゆく。唄を主役として、脇役の三味線はバックコーラスやダンサーのように表立つことはない。されど、いかに主役を輝かせることができるか、役割としては主役に劣ることはない。

日本に連綿と受け継がれてきたこの音曲(おんぎょく)の概念は、西洋音楽の本質とはかけ離れたところで生き続けているのだ。
生を受けた時から日本で西洋音楽一辺倒で過ごしてきたとしても、文化性は取り巻くあらゆる環境から生成されるので、乖離させることはできない。

西洋音楽にはポリフォニーとホモフォニーがある。主旋律と伴奏部分から構成される音楽は後者のホモフォニーであり、その対義としてポリフォニーは多声音楽と位置づけられている。ポリフォニー(多声音楽)は、どの声部も対等に扱われ、主役・脇役の関係はない。
主旋律と伴奏部分からなるホモフォニーは、和声(ハーモニー)が伴うゆえに、旋律と伴奏は切りはなせない関係にある。メロディから和声をはずすと、支えのない単色の音楽となる。和声進行(正確に記すと機能和声)は、自然から調合された一定の流れが有機的に進行するので、メロディだけ取り外すと支えのない浮遊物状態となる。

「クラシック音楽は、伴奏がついていてメロディが浮き上がって聴こえないから、伴奏なしの無伴奏でお願いします」といった要請を、私は何度か受けた。日本の文化環境から鑑みるとこれは全く不思議ではない発想だ。「通常ある伴奏を無くしましょう」という意味において、この発言の「無伴奏」の使い方は誤っているとはいえない。
余談ながら、無視、無駄の「無」はときに無神経であり、無理解、無関心ともつながっている。
ところが、巷で闊歩している西洋音楽用語のように使われる「無伴奏」は、誤った使い方である。「無伴奏」の文言は、楽曲作品の内容と自己撞着をおこしている。
「無伴奏」。この用語は、日本ではおもにヴァイオリン、チェロ、フルートの独奏作品の日本語訳として堂々とつけられている。

次の作曲家たちが独りの演奏者のために、つまり独奏(ソロ)による多声音楽を書いてきた。
テレマン(一六八一~一七六七) ドイツ ヴァイオリン、フルート
バッハ(一六八五~一七五〇) ドイツ ヴァイオリン、チェロ、ヴィオロンチェロ・ダ・スパッラ(小型のチェロ)
パガニーニ(一七八二~一八四〇) イタリア ヴァイオリン
エルンスト(一八一四~一八六五) チェコ ヴァイオリン
イザイ(一八五八~一九三一) ベルギー ヴァイオリン、チェロ、
ドビュッシー(一八六二~一九一八) フランス フルート、
バルトーク(一八八一~一九四五) ハンガリー ヴァイオリン、
ストラヴィンスキー(一八八二~一九七一)、
コダーイ(一八八二~一九六七) ハンガリー チェロ、
プロコフィエフ(一八九一~一九五三) ロシア ヴァイオリン、
カサド(一八九七~一九六六) スペイン チェロ、
ヒンデミット(一八九五~一九六三) ドイツ ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、フルート
ダッラピッコラ(一九〇四~一九七五) イタリア チェロ、クティ(ea)
ブリテン(一九一三~一九七六) イギリス チェロ、
武満徹(一九三〇~一九九六) 日本 ヴァイオリン、
ペンデレツキ(一九三三~) ポーランド ヴァイオリン
ファジル・サイ(一九七〇~) トルコ ヴァイオリン
と枚挙に遑がない。我が家の楽譜庫にはこのように良く知られた作曲者以外のソロ作品も存在している。

これらの作品のうち、歴史に耐え抜き演奏が続けられている作品も多い。とりわけヨハン・ゼバスティアン・バッハが残したヴァイオリンとチェロのための作品は、音楽史上の金字塔を打ち立てた。
たとえばヨハン・ゼバスティアン・バッハ作品の楽譜を検証してみると、作曲者による自筆譜には「ヴァイオリンのソロ、低音をのぞく」と記している。現在頒布されている印刷楽譜のローマ字表記は、「ソロ・ヴァイオリンのために」「ソロ・チェロのために」という表記になっているものが多い。
そう、「無伴奏」に該当する文言はみあたらない。他の作曲家の作品も同様に、「無伴奏」に相当する記載は原語にはない。

J.S.バッハ作曲「パルティータ第2番」の自筆譜

イタリア語のソロsoloが意味するところは「独奏・独唱・独演」だ。もとより「無伴奏」とは隔たりがある。協奏曲のソロパートを演奏するソリストは、「独奏者」と訳される。
因みに、日本で「ソロ」使用している例としては、JRの一人用B寝台個室が「ソロ」と名付けられていたことがある。問い合わせると、「一人」を意味しているとのことだ。

◇超譯(訳)としての「無伴奏」
前述した作曲家たちによる独奏作品は、ポリフォニー(多声音楽)として書かれている。つまり演奏者は、複数の声部すべてを独りで担当し表現することが求められている。各声部は対等平等の関係だ。ホモフォニー(主旋律と伴奏)の形態ではないので、作品に「伴奏」の概念は含まれていない。
西洋音楽の独奏(ソロ)作品分野においては、「伴奏」の概念がないので「無伴奏」の概念も存在しない。「ソロ」は「無伴奏」の訳語として適切ではない。意譯でもなく、超譯ではないだろうか。

複合声部は各々の声部が独立して表現され、演奏に際しては声部が分離して聴衆に届く必要がある。重音で書かれた部分もあるが、単音を追いながら、複数の声部を弾き(吹き)わけることになる。
それには、音脈分凝(おんみゃくぶんぎょう/ストリーム・セグリゲーション)という声部分離の技法が必要となる。音をひとつずつ時間の流れに沿って順番に演奏してゆくも、複数の声部に聴こえるよう音を構成する作曲の技法だ。
演奏者はこの作曲技法を受け、その表現に添うように適切な速度感、声部間の音量や音色のバランスを研究し、創造・演奏にむすびつけねばならない。それが実現できると、声部がくっきりと分離され、作品の奥行きが拡がってゆく。

響きは、演奏環境と条件によって異なってくる。演奏している時も、空気の条件は同時進行で瞬時に変化し続ける。演奏者は五感を研ぎ澄まし、その変化に即応しながら演奏行為を続けることになる。
音脈分凝は、独奏用作品に限られた技法ではない。器楽曲の表現として歴史的に脈々とみられる。とりわけ独奏用器楽作品は、声部の分離を的確に表現することで音を多声部構造に組織し構成してゆくので、この時点で取り上げたまでだ。

弦楽器やフルートの独奏作品について述べてきたが、合唱分野においても「無伴奏合唱作品」という表現がみられる。その実情をのぞいてみると、「無伴奏合唱」の「無伴奏」の部分は「ア カペラa cappella」の意味を示していると思える。
が、こちらも適切な譯(訳)とはいえない。           「ア カペラ」は、元来礼拝堂でうたわれる宗教曲のことだったが、現在は楽器を使用せず人間の声だけで演奏することを示している。つまり直譯すると「楽器不使用、人声のみの合唱」となる。をこれを「無伴奏」とするには、前述の理由と照らすと無理がある。

西洋音楽の中で独奏作品のレパートリーが豊富なのは、ピアノ、チェンバロ、オルガンなどの鍵盤楽器とギターやなどの撥弦楽器だ。彼らは独りで複合声部を演奏する作品を多くレパートリーに抱えている。よって、ステージでの演奏形態として、独奏に絞り込む人が多い。それに呼応し、それをめざしてピアノやギターの練習をしている人には、独奏者を目標とする人の比率が高い。いわゆるソリスト指向とよばれる傾向だ。
就中(なかんづく)、演奏者や聴衆も含め音楽に携わる人人の中には、独奏分野こそが高次元の世界と捉え、ホモフォニーの作品における伴奏部分を担当することは独奏分野に比し次元の低い、あるいは二義的な音楽活動だと捉えている人がいる。これもまったくの勘違いである。
個性と個性の切磋琢磨、あるいは協調精神からあらたなものをうみだしてゆくアンサンブルの世界は、人間の藝術活動として、より高次な段階に移行できるからである。

◇「伴奏」とは
いま一度、「伴奏」を考えてみたい。私は東西共にあいまいであると記し、日本の場合をすでに述べた。
また私は直前に、西洋音楽では「無伴奏」の概念は存在しないと記した。したがって、これから論じる「伴奏」は、その対義語としての「有伴奏」の意味ではない。

日本で使用される「伴奏」と西洋音楽での「伴奏」を考えたい。
「伴奏」は「伴って演奏する」というざっくりとした広義から、主役に従ずる脇役としての狭義の「伴奏」まで、日本での使用方法は幾多もみられる。
時代をさかのぼると「伴奏」には「つれびき」のルビが振られていた。おそらく二名以上で琴や三味線を演奏する、純邦楽の「連れ弾き」から連想させてのことだろう。
「伴侶」ということばがある。この文言を探ってみると、日本と西洋の感覚の相異がよくわかる。伴侶には仲間やお連れさんの意味があるが、パートナーをさす場合もある。

日本では、「夫と妻」を「主人と家内」と呼び変える人が多い。これは家長制度の残影だ。       一九四七年の民法改正で戸主権が否定され、家制度はピリオドを打ったのにもかかわらず、家制度の名残は男女ともに社会的習慣として呼称に残っている。一九四七年の時点で「嫁」「入籍」は死語になったはずだが、こちらも累々と生き延びている。なお、主人の対義語のひとつは奴隷である。

夫と死別した女性を「未亡人」と称する人が未だいる。漢字を直譯すると「いまだに死なずにいる人」となる。かみくだくと「夫と共に死すべきところを、未だ死なずにいる人」の意味となり、どこまでも、男尊女卑が迫ってくる。現在では「未亡人」は放送禁止用語のひとつである。「故◎◎氏の夫人」と読み替えるそうだ。ご本人の姓名より夫の人格を前面に紹介するのも、発想の根底は「未亡人」と同じではないだろうか。ここにも伴侶に主従の意識を捨てきれていない日本の現状をみることができる。

「伴奏」にもその下意識は伝播されていて、「伴侶」を英語にするとパートナーである。仲間、相棒、配偶者をあらわす。西洋文化から培われてきた
旋律楽器の弦楽器、管楽器そして声楽は、単独演奏(歌唱)の場合、自らハーモニーを造形することができない。弦楽器には重音奏法もあるが、和声を持続的に保つことは、現代奏法では不可能だ。バロック時代に使用していた、木の部分が弓なりに曲線を描くカーヴボウ(curved bow)は、その奏法を可能にする。

室内楽や合唱になると、複数の人間が多声部に分かれて分担できるので、純正律による音程と和声におもねられる。「グレゴリアン・チャント」(グレゴリオ聖歌)が代表的な例だろう。

鍵盤楽器の発達と共に、弦楽器、管楽器、声楽が旋律楽器としての役割を受け持ち、鍵盤楽器がメロディ、リズム、ハーモニーを演奏する組み合わせが登場してきた。鍵盤楽器は音楽の三要素を不断に担当できるので、楽器の主軸となった。

たとえば、「ヴァイオリン・ソナタ」というと、一般的にはヴァイオリンとピアノの二者が演奏するスタイルだ。バロック時代を過ぎたあたりから、ソナタはソナタ形式の楽章を含む複数の楽章を持った作品となる。

「ヴァイオリン・ソナタ」と記されると、ヴァイオリンが中心に書かれたソナタと思いがちであるが、そうとは限らない。ヴァイオリンとピアノが編成の場合、ベートーヴェンより前の作品ではヴァイオリンは脇役にとどまる「ヴァイオリン助奏つきのピアノ・ソナタ」のスタイルとなっている。
ベートーヴェンは、ヴァイオリンとピアノの編成で、ソナタを一〇作品残した。そこには、ベートーヴェン自身の意志として、ピアノ・フォルテが主役であると明記されている。
一八〇三年には「ソナタ第九番 イ長調 作品四七〈クロイツェル〉」。が作曲された。この作品は、フランスのヴァイオリニスト、ルドルフ・クロイチェルに捧げられた。そのため『クロイツェル』と呼ばれているが、ヴァイオリンが主力ではない。ベートーヴェン自身が付記した曲名は、「ほとんど協奏曲のように、相競って演奏されるヴァイオリン助奏つきのピアノ・ソナタ」となっている。お伴するのはヴァイオリンである。いみじくもピアノ伴奏ではなく、むしろピアノ・ソナタ~ヴァイオリン伴奏つき~と記した方が、ベートーヴェンの意図には近づくだろう。

一七五〇年から一七七〇年あたりにかけて流行した音楽様式に、ギャラント様式(仏、伊: galante)がある。ちょうどヨハン・ゼバスティアン・バッハが没した時から起ちおこった。複雑なポリフォニーの多声音楽から、華麗なる旋律に和声が絡んでゆくホモフォニックな様式である。簡単に言うと、メロディラインを主役として伴奏が脇役として伴う形式が登場したわけだ。
モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、シューマンなどの歌曲では、旋律は声楽が担当し、前奏・後奏、対旋律、ハーモニー、リズムはピアノが受け持つように書かれている。

時代が進むにつれ、ピアノの伴奏部分は、音楽全体に重要な役割を受け持つようになってきた。シューベルトの数多くの歌曲では、歌唱の主旋律以上に音楽的な役割が増してきた。シューマン作品に至っては、歌唱とピアノの一体感がより充実し、人間の協同作業として相互の相乗作用がより密接に芸術的に昇華された。

主旋律、それに伴い、あるいは支える伴奏の域は一九世紀中旬に、人と人とのパートナーシップにたかめられた。
とはいっても、主旋律と伴奏領域がはっきりわかれた作品も数多く作曲されてきたので、伴奏領域がはっきり確立された作品かどうかは、各々の作品において判断するしかない。

◇ピアノの音
「無伴奏合唱」も、ピアノなどの楽器を伴わないという意味で使用されているようだ。純粋なハーモニー、純正調を基軸として合唱が行われることはすばらしいことだ。

ところが、合唱や声楽のウォーミングアップとして行われる発声練習や、読譜の段階で、ピアノの音を伴って、ピアノの音に合わせて練習をしている現場をみかけることがある。ピアノと共に作品に取り組む合唱曲であっても、ウォーミングアップや読譜を平均律で調律されたピアノに添ってはならない。最初に基音になる音くらいはピアノから頂いても良いかもしれないが、すべての音程が平均的に均(なら)された、微妙に「狂っている」音程を人間のつくりだすハーモニーに取り入れてならないのだ。いつまでたっても、和声的に麗しくない(ハモっていない)合唱にしかならない。

同様に、声楽や器楽の学習においても、音程の確認を鍵盤楽器に頼ってはならない。鍵盤楽器のように減衰する音像を頼りにした場合、音程感覚だけでなく、音の増幅感覚においても弊害が生じるように思う。

ピアノの音程と音像を、弦楽器・管楽器の演奏、声楽の歌唱に移(写)してしまうと、いっけん音程が取れているようであって、音楽的な音程とは似て非なるデジタル音の羅列をみることになる。
とはいえ、ピアノが「正確な平均律」で調律されていることが前提として話を進めてきた。しかし、家庭や学校、コンサート専用会場以外の施設で連日のように調律が行われている楽器はそうそうない。

コンサート専用会場で、リハーサルの直前に調律が仕上がった場合でも、コンサートの本番途中から音程が揺れはじめることもある。温度や湿度の管理を厳重に行っているコンサートホールであっても、場内に聴衆によってもたらされた湿気を防ぎ切ることはできない。

ピアノの調律といえば、自然の響きから微妙に狂わせることによりオクターブを均等割した平均律調律が主流となっている。そのうえ、調律・調整などのメンテナンスを、定期的にかつ緻密に行われているピアノは数少ない。純音からさらに乖離したピアノが、至る所に鎮座しているのが実情である。ますますピアノの音をサンプリングすることが「無意味」「無謀」なことか、お解りいただけるだろう。

◇コールユーブンゲン
声楽に限らず、音楽を学習する過程で登場する教則本に「コールユーブンゲンChorübungen(合唱練習書)」がある。楽譜に書かれた音符を声に出しながら音程感覚を養う、ソルフェージュの教科書だ。

「コールユーブンゲン」とは一般用語として合唱練習書のことで、ここでは一八七六年に刊行されたドイツの音楽家フランツ・ ヴュルナー(一八三二~一九〇二)が編纂した三巻になる練習書の第一巻を取り上げる。音楽専門の高校や大学では、入学試験の課題として使われることもある。

そこには少し長い序文がある。その最後に、フランツ・ ヴュルナーは次のように述べている。
「なお、この練習曲の伴奏に関して、一、二述べておきたい。それは出来るだけ伴奏なしで歌わせ、ただ音の誤りと不純とを訂正する時にのみ、楽器を用いることである。音程練習や和音の練習は、すべて楽器の助けなしに行うべきである 。階名唱法はまず伴奏なしで稽古させ、最後になって伴奏をつけるべきである。しかもその時、歌うべき音をピアノでいっしょに奏してはならない。平均率に則って調律されるピアノを頼りにして正しい音程の練習は望まれない。一八七五年九月一五日ミュンヘンにて フランツ・ ヴュルナー」(信時潔訳コールユーブンゲン(全訳)大阪開成館  一九二五年)

ここでヴュルナーは「楽器」という表現を使用している。この「楽器」とは、鍵盤楽器のみをさすわけではない。文章の末尾に、ピアノとの練習による弊害が記されているところを鑑みると、ピアノ以外の弦楽器や管楽器もその範疇に入っていると考えられる。

日本では、このヴュルナー編纂「コールユーブンゲン」のCDが、歌唱とピアノ演奏つきで発売されている。(ピアノ演奏のないものもある) ピアノは平均律で調律されている。同様の録音物を私は欧米で見かけたことはない。

「平均律で狂わせている音階で教育して美しくなるはずがないではないか。(中略)日本の音楽学校すべてが、平均律のピアノでこれを教えている。」(玉木宏樹著「音の後進国日本」文化創作出版一九九八年)

「恐ろしいことに(中略)CDまで売っているくらいである。これは完全に違反教育である。」(同著)と、厳しい評価をする作曲家もいる。

私も、敢えてCDまでなくとも学習できるのでは…、と考えている。が、全面的反対は唱えない。楽器が用意できないところで、ヴュルナー氏が述べるところの「音の誤りと不純を訂正する時」には役立つことがあるかもしれない。さらに、CDで使用されているピアノの平均律調律が「あっている」とすれば、楽器を用いないで練習を積んだ歌唱の音程と平均律音程との差違を体感できる教材となろう。もちろん、編纂者ヴュルナーの意図を無視し、はじめからCDに合わせて唱うことは猛反対だ。禁則的練習を行うと、耳と心と精神に影響をおよぼすであろう。
「コールユーブンゲン」こそ、はじめは「無伴奏」で練習していただかねばならない。

◇今一度「無」とは
日本にも独奏用の器楽作品を書く作曲家が増してきた。黛敏郎(一九二九~一九九七)作曲「チェロ独奏のための文楽」(一九六〇)は三味線の音色をモティーフとしている。
以降、多くの日本の作曲家が弦楽器や管楽器に独奏ジャンルの作品を書くようになってきた。なかには実験的な作品もないわけではないが、楽器の特性を生かし、もともとルーツが同一だった純邦楽の楽器の特性を作品に取り入れる手法も定着しつつある。

かたや純邦楽分野では、伴奏楽器だった津軽三味線が一九八〇年代になり独奏楽器として活動する演奏者を排出してきた。ようやく独奏楽器として認知されてきた。純邦楽と西洋音楽との融合の歴史は厚い。

西洋音楽を扱う演奏者の、純邦楽に対する知識や認識度は決して高いとはいえない。日本の西洋音楽用語には、純邦楽から得た概念や使用法がいくつもある。私たちは日本の伝統文化からの接ぎ木としての発想と、西洋思考のそのどちらをも学習する機会に恵まれている。

また日本の伝統文化の観点から捉えられ受容されてきた西洋音楽として、あるいは受容史を伴わない日本文化から拡大発展していった音楽の存在も視野に入れながら、混乱を生じている日本の西洋音楽文言事情の解明と対策が必要だろう。急がれるだろう。

日本の伝統文化に目を向けると「無拍子」(ノー テレグラフNo Telegraph)という文言がある。「無伴奏」との因果関係はない。音楽用語に「無拍子」は無く、日本の武道で使われている言葉だ。
武道で拍子(リズム)といえば、「無拍子(むびょうし)」「乱拍子(らんびょうし)」「囮拍子(おとりびょうし)」「合わせ拍子(あわせびょうし)」がある。このうち「無拍子」は、競技の際空手などで予備動作を持たないことをさす。
動作のひとつなので、科学的に動いていないわけではないのだが、相手との呼吸をはぐらかす、あるいは自身のリズムを隠す意味での「無」が使われているようだ。
とすれば、「無伴奏」と名付けられた思索が、日本の伝統文化の息づかいによってたつことも想定されてくる。ソロを「独奏」と「無伴奏」のふたつの言葉に置き換えた思索があるはずだ。後者は全てを独りで築き上げる特定のジャンルに絞り込んで用いている。

東洋的思惟が無の心に重きをおくことを考えると、「無伴奏」は孤高の精神を心にみなぎらせることを示唆しているのかもしれない。武道にその源があると仮定すると、「論語」の「射不主皮。為力不同科。古之道也。」ともつうじ、「無伴奏」に精神的な道徳、自身との闘いを暗喩したことも考えられなくはない。

私は「無伴奏」は「独奏」で充分その意味が足りていると考えている。✏️