ゴーシュからの左右考

わたくし、まつのじんは、幼い頃からヴァイオリンを演奏してまいりました。楽器(Violin)を左手に、弓(Bow)を右手に持って演奏しています。ヴィオラやピアノも演奏してきました。時に、ヴァイオリンとピアノの同時演奏作品もレパートリーに忍ばせてまいりました。
幸せなことに私は左利きで、同時に左手利きです。ヴァイオリンを演奏する際、私の右手が持つ弓はなかなか思い通りに動いてはくれません。私はそれもひとつの個性と捉えながら、今もなお楽しく、時に厳しくつきあっています。

これまでに私は、日本国内はもとより世界各地で「左(手)利き」について、また利き手と楽器もしくは演奏との関係について、数多くの質問を受けてきました。そこには、真剣なアプローチから興味本位に至るまでの、さまざまな観点が存在していました。それはいつも私にとって考える起点となり、いつしか研究テーマのひとつとなりました。

そして、「まつのじん稽古場」には、左(手)利きの方々が自然に参集しています。それは決して偶然ではありません。楽器や社会、そして人間関係と向き合う中で、各々が悩みと苦闘の体験の末に出逢った、かけがえのない接点を持っているのです。

手は脳の一部です。「左(手)利き」は単に「利き手」という手のことだけではなく、脳の在り方そのものを意味します。しかもそれは一様ではなく、「左(手)利き」の中にも各々異なった脳の様子がみうけられます。「右(手)利き」「両(手)利き」の人たちよりも各々の状況が複雑ではないだろうか、と私は推察しています。

私たちは脳の中を簡単にのぞくことができません。またのぞけたとしても、その様子を手に取るように識ることはできません。専門家による数多くの研究から、右脳と左脳の各々の働きと役割、相互の関係性、手との関連性などを識ることができます。そこから「左(手)利き」と脳の多様性をより理解できる扉が開かれます。
といっても、脳の専門的なことは門外漢なので、自身の問題点に照らして思考を重ねるしかありません。
脳は成長と退化の中でたえず変化してゆきます。成長の過程にあるときは、鍛え方により大きな変化がみられることがあります。

●わたしたちの生活

人類の大多数が右(手)利き、もしくは両(手)利きであることは、統計的にもあきらかです。
世の中のしくみは、ほぼ全てが右(手)利き仕様で成り立っています。右(手)利きの人にとっては自然な環境なので、その現実に気づきにくいことは当然のことでしょう。 
ひるがえれば、そのしくみは左(手)利きにとって絶え間ないストレスと共存していることを意味しています。それは日常使用する道具や日常の所作から、思考回路や人間関係に至るまで多次元に渡っています。幾重にも重なる軋轢や自身への葛藤と向き合うことが、生活と人生の一部に組み込まれているのです。ときに精神や会話、社会との関わりに屈折が生じたり、生活事故を起こすことも稀ではありません。思わぬところに危険が待ち受けていたこともありました。

私たちが日々向き合っている苦闘は、乗り越えることの試練をもたらします。幼少時から鍛えられ続けるのです。左(手)利きのこの試練と感性が、超越した才能を人類にもたらすことも歴史的に知られるところです。

レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452.4.15~1519.5.2)、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756.1.27~1791.12.5)、アルベルト・アインシュタイン(1879.3.14~1955.4.18) ……をはじめ「まつのじん」に至るまで、綿綿とした左(手)利き人類の足跡が確認できます。ジョークはさておき。

●書き方を指示する国

私は日本の大阪で、1960年1月30日に生まれました。子どもの頃から、私は文章や楽譜を書いてきました。漢字圏に位置し、漢字以外の文字も使用する日本語の世界で育った私は、漢字とひらかな・カタカナに囲まれて生活してきました。ひらかなとカタカナは漢字の展開形ですから、右利き仕様というスタイルは同一でしょう。それらの左手筆記は苦労の連続です。おまけに手が汚れる横書きが待っていました。
書字方向(文字の並べ方)について、私は学校教育の中で左から右に筆記することを学びました。これには「書き方」についての官製の指示文書があったのです。紹介します。
諸官庁の作成する文書形式のガイドライン『公用文作成の要領』(1951年10月30日国語審議会審議決定・1952年4月4日内閣官房長官依命通知)によると、「執務能率を増進する目的をもって、書類の書き方について(略)なるべく広い範囲にわたって左横書きとする」とされています。このような通知は、世界的に見て珍しいことのようです。
ひな型を設定せねばならない、という慣習が影響していると思われます。発想がいささか官僚的ですね。

●きょうせい

「左利きを〈きょうせい〉した方がよいと思われますか?」
「こどもの頃に〈きょうせい〉されなかったのですか? 〈しつけ〉られなかったのですか?」このような質問を浴びるのは、私にとり日常茶飯事です。
「私の育った環境に〈きょうせい〉はありませんでしたよ」と”そのままの言葉”を用いて応えるのが、精一杯のところです。
おそらくこの〈きょうせい〉は、漢字で「矯正」や「匡正」を指すのでしょう。それは字のごとく、「誤りや欠点を直し、正しくする」ことを意味します。つまり「正しい」位置は「右(手)」の意を持っています。
多数派が正義だとは限りません。私たちにとっての「正」は「左」なのですから。
悪気の有無にかかわらず、このアプローチはわたし(たち)にとって、多少のストレスを抱かせることばなのです。
それだけではありません。しばしば「強制(勢)」的であったりする右手づかいへの転換作業は、脳の構造に差し障ることなのです。それは時に、吃音をもたらしたり精神状態をも混乱させます。からだが拒否反応を示す人もいますし、発達が停滞してしまう子どもの事例すらあります。
そして「矯正」の影響は、人生そのものに長く、深く響いてゆきます。

●ゴーシュとして

私は可能な限り「共生・共棲」でありたいと、心から願っているゴーシュGaucheのひとりです。
ゴーシュとはフランス語で「左(の)」を意味します。「不器用な」「ゆがんだ」の意味も含まれているそうです。(不愉快な表現ですね。(p_-))
ゴーシュというと、宮澤賢治の童話『セロ弾きのゴーシュ』(1934年発表)が近い存在です。そこには、右利き用の楽器(チェロ)を手に、懸命に取り組むチェリストのゴーシュさんが描かれています。宮沢賢治はその不得手なところをよくつかみ、そして困難を克服してゆく過程をみごとに表現しています。賢治の洞察力と表現力に脱帽です。これは、チェロを学んだ自身の経験からかもしれません。とすると、賢治も左利きだった可能性がありますね。

私は「ヴァイオリン弾きのゴーシュ」として、半世紀にわたり楽器と共に歩んできた左利き演奏者として、私なりの「ゴーシュの世界」を探り、みつめてゆきたいと考えています。
夢とロマンを友として。
そして、ほんとうのさいわい をもとめて。✏️